函館山の麓にて…

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zoom RSS 鬱金桜(ウコンザクラ)

<<   作成日時 : 2007/05/16 22:26   >>

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5月16日(水)
元町カトリック教会の正門を入ると、すぐ右手にちょっとした花壇があります。
そこにはいろんな花が植えられていて、一本の木がすっくと立っています。

春になると、色とりどりの花が根元に広がり、また一本の木には薄い黄緑色の花が咲いて、
ひらひらと春風に舞う光景は、ちょっとした花園を思わせるようでした。

一ヶ月ほど前、見ることを楽しみにしていた花壇に造園やさんの手が入りました。
信者さんたちが世話をしてきただろう花々は取り去られ、土も入れ替えるなどの
大がかりな整備が数日かけて行われました。

すぐ側の幼稚園の先生に伺ってみると、
立っている木は市内でも珍しい桜の木であることがわかったそうで、
現状調査の結果、根元の花々に栄養が吸収されてしまい、
木の成長に支障をきたしているとのこと。
よって、桜の木を保護するため、残念ながら今回整備することになったと
話してくださいました。

整備が始まったころは花芽も少なく、葉もないような状態だったので、
これは重傷なのかしら…と思っていましたが、
今日、娘を幼稚園に送っていくと、初老の信者さんが3人、
教会前のベンチに座って木を眺めているのです。

「どうかしたの?」っと思い、その先に目を向けると、
そこにはなんとも素晴らしい桜があったのでした。

一晩で咲いたという訳ではなく、
単に、私が今まで気にも留めていなかっただけなのですが、
その桜の素晴らしさに、思わず携帯を手にして写真を撮ったのです。

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この珍しいと言われた桜の名は「鬱金桜」(ウコンザクラ)。
八重咲きの黄緑色をした花で、漢方薬や染料にも使われるウコンに色が似ていることから
その名前がつけられたそうです。
江戸中期頃に見られた「サトザクラ」の栽培品種で、バラ科サクラ属の落葉高木。
学名を Prunus lannesiana cv.Grandiflora。
グランディ・フローラというのは「大きな花」という意味で、
ご覧の通り、房のように花がついています。

函館市の保護樹木の登録が今年の5月。
標識には樹齢が45年と記してありました。

見慣れていたものが、ひょんな事で価値あるものにかわりました。
標識が立ったことで、観光客も足を留め桜に目を向けるようになったのです。

西部地区に、また一つ人々を楽しませてくれるものが増えました。
「教会と共に、愛され親しまれる桜になる…」、信者さんの笑顔が誇らしげに見えました。

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ハリストス正教会 大船渡市盛町 司祭ニコライと菜の花の沖
 三陸の町に趣きのある西洋建築があった。ハリストス正教会で北の港町でなぜと思った。世界史的にはギリシャ正教会でハリストスとはギリシャ語でキリストの意味がある。  1861年北海道の函館に司祭ニコライが伝道を始めた。その後仙台・佐沼・気仙沼・陸前高田と布教する。本部は神田御茶ノ水のニコライ堂である。このニコライ堂は御茶ノ水の駅前にそびえていてとても雰囲気があって私は好きなロケーションだ。 この函館に布教として教会を建てた時期と「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛がダブって見える。江戸後期ロシアとの友好を切... ...続きを見る
花と山歩き
2007/06/21 18:07

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。
今日は お天気も悪く「お散歩も出来ない・・・」と、そんな どんより気分を吹き飛ばそうと!パソコンを開いたら なんとまあ!素敵な画像が!教会をバックに、何ともきれい!
毎日 子供の手を引き(たまに、引かれ・・・)雨の日も 吹雪の日も「えっちら〜おっちら〜」と 通ったことを 思い出されます(また 涙が・・・)
毎日 信者さんが 丁寧に お手入れをしていらしゃっいましたよね。
それに そんな 貴重な桜だったとは・・・びっくりですね〜
お天気は 悪いけど おかげさまで もんやり気分も吹っ飛び 今日も一日
元気に過ごせそうです。どうもありがとう。。。
くれぐれも ご無理は なさらないようにしてくださいね。
貧血 起こしますよ〜
しょこたん
2007/05/17 10:28
▲しょこたん
しょこたんも毎日歩いて通ってましたね〜。

車に頼ってばかりの生活。
今更ながら歩くことの大事さがわかりました〜。
運動にもなるし、ダイエットを期待してるんだけど、
なかなか効果がナイ。。。(^_^;)
紫外線が気になる季節だから、ステキな日傘でも買おうかしらん♪




nikoyuri
2007/05/17 23:25
初めてお邪魔します。ご主人にお世話になってますH町住人です。
江戸時代東京向島にあったウコンの枝を一本折ると、指1本切られたという貴重な桜だそうです。200余年前、現在のホテルJALシティの向かい側一帯5万坪の敷地に、函館の恩人高田屋嘉兵衛の屋敷(高田屋御殿と呼ばれた)があり、その敷地内に多くのウコンが咲き乱れたそうです。当時の高田屋の勢力を示すものです。函館には存在なしと聞いていましたが、意外に身近なところにあり驚きました。
箱館人
2007/06/14 19:13
▲箱館人さん
はじめまして♪。
おいでいただき、ありがとうございます。
主人から西部地区を案内していらっしゃることなど
聞いておりました。
函館の歴史に詳しいのですね〜。
高田屋嘉兵衛の敷地が5万坪とは驚きです。
鬱金桜、見応えがあったでしょうね。

市内では的場中学校の庭にも鬱金桜があるそうですよ。
リンクしてあるたけさんのBlog「☆酔族館日記」に
写真がUPされていますので是非ご覧になってみてくださいネ。
nikoyuri
2007/06/14 23:58
的場中学校(むかしむかしの紅顔時代の母校)にも。有り難うございました。「箱館ロシア病院」について調べています。慶応2年に焼失後、明治5年に再建された説(ガンガン寺物語他)と再建を断念し医師は長崎に移り、「長崎ロシア病院」を開設した。(ロシアの海軍文献)相反する2説に分かれています。長崎市に紹介しましたが開設の確認できませんでした。またもし再建されたのであれば、いつ廃院になったのでしょうか。参考文献がありましたらお教えください。

箱館人
2007/06/15 21:56
▲箱館人さん
かつて境内地内にあった「函館ロシア病院」についてですね。
1866年の焼失後に再建という説は、恥ずかしながら私はお初。

領事館付きの医師や軍艦の官医による病院ですから、領事館の役割を終えた1872年(明治5年)以降に再建・存続していたと考えるのは難しいカナ〜。

当時を考えるなら、函館の領事館閉鎖後に往来があった長崎に寄港し、再びその職に当たった可能性が高いのではないでしょうか。
寄港地に建設することもあるでしょうが、「病院船」という形で港に停泊したまま医療活動を行ったかも知れません。






nikoyuri
2007/06/16 04:34
●上記続きです。

長崎のロシア領事館については、最初の領事館が1868年(明治元年)に東山手に建立、その後南山手に移設した際、敷地内には函館と同様、付属聖堂が建てられています。(1905年(明治38年頃))
※領事館は1875年〜1917年まで設置
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=5880

長崎正教会の状況は、領事館関係者や在留ロシア人らが付属聖堂へ通い、1906年大主教ニコライによってアントニイ高井司祭が派遣されています。教会の記録によれば、この聖堂は旧ロシア海軍病院の跡地であったとされています。
(※1943年、西山町に聖堂が建立されるが原爆で破壊。)

手持ちの資料ではこんなトコロです。
函館教会は2度の大火にあっているので、残存資料は極めて少ないです。教団資料には何か残っているかも。少し調べてみます〜。
nikoyuri
2007/06/16 04:35
長崎のロシア海軍病院の情報有りがとうございます。早速関連を調べてみます。
箱館ロシア病院は、確かにロシア人のための病院でしょうが、50〜70床程度の入院設備もあり、箱館住民は漢方中心の「箱館病院」より、フランス医学を取り入れたロシア病院にかかり、1日の外来も50人におよんだ唯一の本格病院です。松前、江差はもとより、遠く江戸からも治療に来たそうです。そのレベルは、箱館病院の医師8名がロシア病院で研修したことで証明され、1年以上研修した医師もいたそうです。
フランス系のカトリックも対抗上病院開設を計画しましたが実現せず、アメリカは1人の医師が、寺を利用して短期間外来診療だけをしましたが、横浜での開業のため去っています。北海道医療の黎明期において、ロシア病院のはたした影響は大きかったわけです。それがなぜ再建されなかったのか、あるいは粗末な仮病棟だけで再建されたのか(ガンガン寺物語説)不思議なことです。
箱館人
2007/06/16 23:53
▲箱館人さん
詳しく調べているんですね。
機会があれば、是非資料などとも合わせて教えて頂きたいです。

函館の医療機関の先駆けとしてロシア病院があったということは、函館市史や新島襄などの文献資料からもよくわかりますが、1866年に焼失した後、再建・診療を続けたという記述は日本正教会関連の書物においても見かけません。日本人初の正教授洗者の一人に酒井篤礼がいますが、彼も医者。境内地内でザレンスキーらと共に診療を手伝っていたかもしれません。(キリスト教禁制の取り締まりが厳しくなり一時は函館を離れるが再び来箱。医者として生計を立てていました。)
当時の開拓使資料を見ると、ロシア病院跡地を巡る書簡などがありますし、病院として公なものを建設しなくとも、診療を行っていた可能性はある…。
歴史の空白部分を想像するのは面白いですね。
いずれ函館教会史にも取り組むでしょうから、外部研究者とも連携をとればより明確な教会史が出来ることでしょう。
色々教えていただければ幸いです。
nikoyuri
2007/06/19 01:10

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