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箱館人さんから、かねてからご質問を受けていた「ロシア病院」のこと。 先日、はこだて外国人居留地研究会から講演会にて配布されたというマップ「ロシア編」は、 代表者に問い合わせをしたところ、入手することができました。(感謝!!) 今後はイギリス編など順次作られるようで楽しみです。 函館ハリストス正教会が所有する資料や関係書籍をはじめ、 函館の郷土資料なんかをいろいろと読んで、 1860年から1900年までの40年の様子を やっとこさ!?頭の中で整理できてきました〜 年を追って綴ってみますんで、どうぞお付き合いくださいね(^^;) ロシア領事館が現在の函館ハリストス正教会の場所に建てられたのは1860年と言われています。 聖堂の建立の年月日については諸説があってここでは詳しくふれませんが、 聖堂が建った後、1863年(文久3)にロシア(海軍)病院が建てられました。 ロシア病院がどこに建ったのかというと、領事館の東隣の土地。。。 現在の境内地内であるようにも思われますが、 これも、関係書を読んでみると、いろいろあるようです。 函館の郷土資料としても名高い「地域史研究はこだて」第2号に 谷澤尚一氏による資料紹介があるのですが、 そこに掲載されている、北大所蔵の「応接書上留」箱館大工町上通の図には、 今の港ヶ丘通り(ハリストス正教会とカトリック教会の間の横通りのことです)に面して ロシア領事館の土地40間、ロシア病院の土地24間とあります。 1間=1.818メートルとすると、合わせて116メートルちょっと。 現在の元町遺愛幼稚園の向かい角から始まる石垣から、 ヨハネ教会の石垣、すなわちギャラリー村岡さん向かい角の石垣あたりまでが、 おおよその長さになるでしょう。 面積として当時のロシア領事館は3200坪という広大な土地を使用していたことになります。 さて、ロシア病院の見取り図は、「函館市史資料編・1」所収『凾楯紀行』にあるように かつて、このロシア病院にて眼病治療の為に入院した新島襄が書き残した図が知られています。 しかし、この図を見てみると、 病院の入り口にある門は北側を向いています。 私たち教会側が示す方角は、聖堂が東を向けて造られるとしていますので、 南は函館山で、北側というと、函館の港を向くことになります。 現在の境内地をご覧になるとおわかりのように、 石垣は、現在3メートル近くの高さがありますが、 正門以外に、切り出し部分はありません。 なので、現在の境内地にあったならば、石垣際に建っていたのではなく 境内地の奥側か、もしくはもう少し東にずれて、現在の元町ヨハネ教会近くに 建てられていたのではないかと思われます。 この石垣のことを説明すると、 1916年(大正5)に2代目の聖堂建立された際に、 大がかりな境内地の造成と石垣工事が行われました。 初代聖堂の写真はネット上でもよく見かけますが、 こちらを見るとすでに石垣はあります。 ですので、石垣は安政時代からのものでしょう。 ただし、領事館はかなり手早く建設したそうですから、 その際に石垣まで完成されていたかどうかまではわかりません。 境内地に聖堂や関係者の住居が順に建てられていく中、石垣も徐々に整備されたのかもしれないです。 門は、今の場所よりも、もう少し、境内地内に入り込んでいます。 2代目聖堂建立の際、傾斜をつけた階段に改修され、 現在のものと同じ階段になっています。 石垣に使用されている石材は、 境内地を掘り起こした際に出てきた石と 入舟町の奥、穴澗手前にある採石場からの切り出し石が 使われたようです。(これは函館石と言われています。) 函館山の麓周辺はどこも石原で、少し掘っただけでも石にぶつかるという 業者泣かせの場所だそうです。 この石垣は昔の石工職人によって頑丈に組まれていますが、 昭和の十勝沖地震や、記憶に新しい奥尻島を直撃した、 北海道南西沖地震の時に崩れたりして、 これまでに数回の改修工事が行われています。 さて、話を戻しますね。 函館の医療活動に貢献したロシア病院は、 建立されてわずか3年足らず、1866年(慶応2)に火事で焼失してしまいます。 さぁ、ロシア病院はその後にどうなったのでしょうか? 不思議なことに、「函館市史」通説編1 3編5章13節3-7によると 「慶応2年出火焼失し、明治5年再建された…」とあるのですが、 「函館市史」通説編2 4編12章1節1-2には、 「ロシア病院の方は慶応2(1866)年に焼失し、その後に再建されることはなかった」とあります。 同じ「函館市史」であるのに、 この記載の食い違いはそのままにしていていいのでしょうか。。。 箱館人さんが言う、「明治2年再建」はどの資料によるものですか? 是非お教え願います。 最近になって出版された、『ニコライ堂遺聞』(長縄光男著)や 『ニコライ堂の女性たち』(中村健之助・中村悦子著)を読んでみると、 ロシア病院の土地や境内地の建築物の様子について知ることができます。 『ニコライ堂遺聞』にある「第4章初期函館正教会点描」によると、 1875年(明治8)、信徒埋葬でひと事件起こったことが書かれています。 話はこうです。 正教会の信徒であった、ヴェラ山中琴路という少女が永眠しました。 普通の仏教徒であれば、死者は葬儀を行った後、お寺の墓所に納めるというものですが、 キリスト教の禁令が出ていた当時、加えて明治7年に公布された「埋葬法」によって、 「仏教や神教以外の葬儀をおこなった者には、埋葬場所を与えない」という法律が出されていたことから、 日本人の正教徒は一体どこに埋葬するのか?という問題が教会内に起こっていました。 困った両親はあちらこちらに掛け合ってみれど、どこも受け入れてくれない… そりゃそうです。 キリスト教が認められていない世間で、了解してくれる所などありはしません。 当時の函館人だって、領事館があるからしかたがない…としていたはず。 教会に出入りする人や正教に入信した日本人信徒に対して、快く思っていたはずがありません。 そこで、函館の領事館付属聖堂に奉職していた司祭アナトリーは窮地の策として、 かつてあったロシア病院の土地に埋葬することを提案します。 人目に触れるような時間を割けて正教会の葬儀を行い、 真夜中近くになってようやく、病院の跡地に埋葬したのです。 埋葬が終わりホッとしたのもつかの間。 このデリケートな問題を聞きつけ、 水を差した人がいたようです。 ドイツ領事ハーバーです。 「死者をどこにでも葬っていいはずがないだろ〜」とでも言ったのでしょうかね〜 教会では、聖堂の近くに死者を葬るということはあまり不思議ではありません。 現在でも、聖堂内に納骨堂があるところもありますし。。。 函館でも鐘楼の途中の踊り場に一時保管していたこともあります。 正教会の人間にとっては「別にどこが悪いんだ?」という感じです。 ロシア人関係者にとっては、 「自分たちの土地(大工町の土地)でのことに口出しするなよ〜 日本であっても土地の中ではロシアの国みたいなもんだし、 その習慣にならうのはなんの不思議もないことだぞ! 言われたままではしゃくに障るから確認してくるわいっ!!!」 と言ったかどーだか。。。。 真面目な司祭アナトリーは、開拓使の所へ行って、土地の確認をします。 しかし… 後に「この借地権は文書として正式に認められていない」と言われてしまうのです。 おまけに埋葬の件もちゃんと説明しろと言われ。。。 司祭アナトリーは、「!!!!!!!!!&??????」だったでしょうね〜 どうも、この当時の土地使用に関わる手続きは結構ラフだったらしいですよ。。。 だって外国人とのやりとりですもの〜。 ロシア語はもちろん、英語があまりわからず、 何でもイエ〜ス、イエ〜スと言っちゃうみたいなところがあったのかも。 このあたりは、函館図書館の「アナトリイ文書」や「ロシア関係古文書」として保存されているので 確認ができます。 司祭アナトリーさんは、とても丁寧にことの次第を説明していて、 「間違って土地を使用していたなら謝ります。。。」なんてことも申しています。 そんなこんながあったけど、1875年(明治8)に ロシア病院の跡地を正式に使用する契約を交わすのですが、 1876年(明治9)の末に土地を返上することにしちゃいます。 少女ヴェラ山中琴路さんはロシア人墓地に移葬され、安息の場所を得たのでした。 さて、ここから、箱館人さんの質問にお答えします。 前置きが長くなって申し訳ありません。 コメントにあったご質問によれば、 はこだて外国人居留地研究会が配布したマップ掲載の写真 マップ記載文章について 「明治9年頃、豊川町よりハリストス正教会付近を臨む 右側から三角屋根の建物がロシア司祭チハイ・アナトーリイの司祭館(幕末のロシア病院跡地)、 その右隣がクーポラ(タマネギ型丸屋根)を載せたハリストス正教会(幕末のロシア領事館敷地)、 その右手前の大きな建物がフランス・カトリックの天主公教会」 正直なところ… 少々誤りがあり、疑問もあります。。。 写真中央上に見える三角屋根の建物。 土地勘から言うと、元町ヨハネ教会の場所にあたりますが、 上記にも記したとおり、当時元町ヨハネ教会あたりまでがロシア病院の土地でしたが、 焼失後は空地です。 ですので、この建物が司祭アナトリーの居住していた司祭館であるはずがありません。 「函館市史」都市住文化編 第二章 函館の建築文化には 聖堂の写真や境内地内の配置図が掲載されているように、 司祭館は、初代聖堂の西側手前横にありました。 (現在地で言うなれば、遺愛幼稚園側の西門付近になります) 木陰に見えているのがその建物です。 白い洋館で、2階が司祭の部屋。 1階は若手の伝教者の部屋があり、渡り階段があって、 コック、使用人の住居と続く建物がありました。 初代聖堂は現在の聖堂よりも山側に建てられています。 これは、同書に函館山より写した境内全景写真もあるので確認できます。 さて次、 マップ掲載写真の中央から右手に聖堂のクーポルがちょこっと見え、 手前に平屋建ての建物が見えています。 これは、1873年(明治6)に建てられた「正教学校」です。 上記の写真をよく見ると、写真を写した人が立っているのは、 どうも正教学校の場所のようです。 植え込みも綺麗で、建物の基礎が見えています。 これはかつてここに何らかの建物があって(ひょっとしたらロシア病院かも?) 取り去った後に、建築を始めたばかりの現場写真ではないかと思われます。 これを火事で焼けた建物の基礎=跡地とするならば、 植え込みや周りの木々が綺麗に残るはずがない…というのが私の見解です。 基礎をみるかぎりロシア病院の見取り図と異なりますし… 下に元町カトリック教会があるのは間違いはないですよ(^_^;) この写真だと半分欠けてますけどね〜 さて、写真を写した時期について、 マップによれば、明治9年頃とあります。 元町カトリックの教会が建立されたのは、1877年(明治11)。 「函館市史」都市住文化編 第二章 函館の建築文化の掲載写真には まだ元町カトリック教会の姿はありません。 でも、すでに正教学校はあります。 正教学校も建立した翌年に増改築を行っているので、 玄関先の仕様は若干変わっています。 ここでは、3つの玄関があるように見えますが、 こちらでは、2つ。 この写真では薄くて確認しづらいですけど… 後ろには元町カトリック教会の鐘があった鐘楼の丸屋根が見えています。 マップの掲載写真には元町カトリック教会の鐘楼が見えないので、 鐘楼は後に付け加えられたものだというのがわかります。 では、三屋根の建物は何か? 元町ヨハネ教会(元町聖公会)の歴史は、お隣のことなので詳細がわからないものの、 「函館市史」通説編3 5編2章節3-8によれば、 明治7年、ウォルター・デニング宣教師が来函した後、宣教師が送り込まれ、 市内のあちらこちらに会堂を設けたとあり、 1889年(明治22)、現在の場所に靖和女学校を創立し、 翌年には函館伝道学校も創設しています。 この頃の地図(改正函館港全図(明治22年印刷))を見ると、 すでに正教会との敷地を分ける道路(チャチャ登り)ができているのがわかります。 このことから、三角屋根は元町聖公会に関係した建物ではないかと思うのです。 更にこの理由として、マップ掲載写真にある三角屋根の右横には、 小さいですが、いくつかの建物らしきものが見えています。 これは、正教会の境内地内にあった教会関係者の家や、 後に創立された正教女学校ではないかと思われます。 このころの境内地の様子は、「掌院セルギイの北海道巡回記」に記述されています。 函館から東京に移った主教ニコライと共に、 お披露目も兼ねて函館にやってきました。 1898年(明治31)の夏のことです。 『ガンガン寺物語』をお書きになった故・厨川氏も境内地のことを記述していますし、 生前の講演会記録にも当時の様子を話しておられます。 厨川氏はかつて函館の司祭でもありました。 (私は生まれて6ヶ月の頃にこの方から洗礼を授けていただいたんですよ〜) いろいろ書いてしまいましたが、 このことから、上記写真の時期は明治9年とは言い難い。。。。 写真の建物は、後に起こる1907年(明治40)の大火で、全てが焼失されてしまうのですから 貴重な写真であることには間違いありません。 私も初めて目にした写真だったので、 調べるまでに時間がかかりました(^_^;) でも、研究者ではないので、素人の個人調査の域を出ず 誤りもあるかもしれません。。。 研究会に写真の出所をお教え願いましたが、音沙汰なし。。。 例のマップはすでに発行されているものなので、 どのように対処すればよいかわかりません。 ただ言えるのは、歴史は関係者と共に十分に調べましょう…ということに尽きるのではないでしょうか。 箱館人さんのお答えになったかどうか。。。 いかがでしょう? |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
お久しぶりです。お元気のようですね。忘れられてますかね。小田原の信者です。大変な資料を見ての文で、大変なのを感じます。さすがnikoyuriさんです。小田原の120年史でさえ少し(家の先祖の名前が出ている所くらい)しか見ていないのですが頑張ってみましたよ。我家は、明治の初めの頃からの信者なので明治時代に亡くなっている人から、その前の時代のお寺さんに 聖名を刻んだ墓があります。墓地祈祷は、9軒くらいが同じ寺なので お寺さんには、墓地祈祷に信者が集まる事を知らせたりしています。昔の方が今よりもおおらかにお付き合いがあったようです。 |
mari-na 2008/07/02 15:32 |
大変お手数をかけ恐縮してます。それも厖大な資料を駆使され。なお明治2年再建説(以前に私が記述したのですよね?)は誤りで5年が正解です。 |
箱館人 2008/07/02 18:21 |
▲mari-naさん |
nikoyuri 2008/07/02 23:01 |
▲箱館人さん |
nikoyuri 2008/07/02 23:14 |
公立豊川病院を引き継いだのは、函館病院の院長を辞した佐藤廉と記憶してなすが。後藤さんはちょっと分かりかねます。 |
箱館人 2008/07/03 08:31 |
▲箱館人さん |
nikoyuri 2008/07/04 01:36 |
▲箱館人さん |
nikoyuri 2008/07/04 02:07 |
病院再建は、ロシア側の資料「海事集録」で、函館の病院は1866年に閉鎖され、そのかわりに長崎の稲佐に近い悟真寺内に開設。パンフの発行責任者はこの説に基づいております。私が長崎市文化財課に問い合わせたところ「ニコライの首飾り 白浜祥子著」の抜粋の送付がありました。その中で、明治8年8月に稲佐の土地をロシア海軍に貸し、二つの養病所(病院のことで、士官と水平とは別棟になっていた。)を建てたとの記載があります。ただし別の資料では、治療と言うよりは遊女の梅毒検査が主と思われ、また悟真寺内は確認できないとのことでした。 |
箱館人 2008/07/04 14:33 |
●病院跡地の埋葬にハーバー(代弁領事で、明治7年に函館公園附近で秋田藩士に惨殺される)がいちゃもんをつけたのは、この場所にドイツ領事館の建設を目論んでいたと思われます。ただし明治7年に死亡したので、時期には疑問が生じますが。 |
箱館人 2008/07/04 14:49 |
厨川著「函館ガンガン寺物語」では、1865年に焼失した病院のあとに、仮の粗末な病舎が建てられてあったが、それを撤去した跡地に校舎を建てたのである・・・。(P180)との記載があります。 |
箱館人 2008/07/04 15:40 |
▲箱館人さん |
nikoyuri 2008/07/05 00:36 |
▲箱館人さん |
nikoyuri 2008/07/05 01:03 |
神父様、勇退ですね。ご苦労様でした。50年長かったように思いますけれど、70歳、まだまだですよね。今度のニコライ神父様は、とても優しい方です。東京に居られた時には、スベトラーナさんと一緒に聖歌リーダー研修会でお話も致しました。日本語も堪能で、難しい話になると奥様が通訳して下さいます。熱心な神父様ご夫妻です。聖歌も、益々すばらしい物に成るでしょうね。 |
mari-na 2008/07/15 09:49 |
▲mari-naさん |
nikoyuri 2008/07/16 01:36 |
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