函館山の麓にて…

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help リーダーに追加 RSS トホホ… 訂正です。3人のセルギイ

<<   作成日時 : 2008/07/16 01:08   >>

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ロシア病院のことから始まって、近頃あれこれと読んでいるのは、
明治キリスト教の関連図書。
黎明期であるこの時代、各地における正教会、カトリック、聖公会、
プロテスタントなどの宗派の動きはなかなか面白いものがある。

ニコライさんは各派の関係者との交流があったし、
正教を日本に宣教する際でも、既存の宗教について、
批判めいた言動を表だって行うことはなかった。

函館においては、カトリック教会が正教会の復活祭に際し、
(カトリックの)信徒が正教会の儀式に参祷することを禁じた。
司祭らが船や汽車で同乗した時には、会釈はすれど、
言葉を交わすことは無かったという。

一方、聖公会との関係は割合好意的であったようで、
互いの教会の説明をしても、口論をすることは無かったとある。
特に英国国教会派の主教らは、互いを尊重しあって
ニコライさんより祝福を受けた人物もいたようだ。


さて、つい先日購入した本を読んでいたところ、
大きな勘違いをしていたことに気がついた。
『掌院セルギイの北海道巡回記』の著者であるセルギイは
日本正教会における2代目府主教セルギイとは全く別の人物だったということ。

「ありゃりゃ〜やってしもうたわ〜」ということで、
前記の投稿記事は訂正をさせていただきました。

指摘を受ける前に自分で間違いに気づいたのが良かった…と思いたいが、
正教会の関係者や博識な閲覧者がいらしたなら、ホントお恥ずかしい限り。。。
やっぱり調子に乗るモンではないな〜と反省しております。
実際、どれだけの方が見てくれているかはわからないけれど。。。(^_^;)


そこで、間違いついでにメモとして記しておこうと思う。

正教会において明治期に来日したセルギイの名を持つ人物は3人いる。

まずはセルギイ・グレボフ。
彼は明治21年に来日したロシア大使館付の司祭。
ロシア語の文法書などを書いた人物。

そしてセルギイ・チホミーロフ。
彼がニコライ亡き後に日本正教会を導いた人物。
1908年(明治41)に来日し、1931年(昭和6年)ニコライさんの後を継ぎ府主教となる。
ロシア革命、関東大震災を乗り越えるも、1945年(昭和20)、
戦時中の諸事により退位し孤独死をされた方だ。

最後に記すは、セルギイ・ストラゴロツキーである。
彼が『掌院セルギイの北海道巡回記』の著者。
1898年(明治31)の夏にニコライさんと共に函館に来て
北海道の各地を巡回した人物である。
彼は1890(明治23)に来日し、1893年(明治26)に一時帰国するも、
1897年(明治30)に再来日し1899年(明治32)に帰国した。(うぅ〜ややこしぃ(>_<))
彼も、帰国後にロシア正教会の12代総主教となった偉いお方で、神学者としても有名だそうだ。
上記の巡回記は1909年に出された帰国報告であった。

セルギイ・ストラゴロツキー、セルギイ・チホミーロフの両氏の関係はこれまた興味深いものがある。
来日後まもなく日本語を習得し、通訳なしに日本各地を巡回していることとか、
セルギイ・チホミーロフはセルギイ・ストラゴロツキーによって府主教に任命されているなんてあたり、
セルギイさん同士に共通点や関わりあいがあったりするのです。

また、両氏の評判は、来日当初、
ニコライさんも大喜びをするほどのものであったが、次第に低下。
セルギイ・ストラゴロツキーは「ニコライを裏切った人物」と言われるし、
セルギイ・チホミーロフは優しい人柄が災いしニコライさんから金銭感覚を批判されていたりする。

文章表現からして言えば、セルギイ・ストラゴロツキーは冷静で観察力が深く、
明治期の北海道の庶民生活がどんなだったかがよくわかる。
セルギイ・チホミーロフのほうは、説教等から優しい人柄が伺えるし、
『十二位一体の聖使徒』を読めばつくづく学者だなぁと思ったりする。


北海道への巡回は両氏とも夏に行ったりするんで、年代の見落とし…
で、間違えちゃったのよ〜なんていい訳をしてみたりして。
いやはや、大失態。
大変失礼いたしました。m(_ _)m

加えてもう一つ。。。

『掌院セルギイの北海道巡回記』と『ロシア人宣教師の「蝦夷旅行記」』(佐藤靖彦訳 新読書社)を
読んでみたところ、
函館のロシア病院についての記述は、「再建されることにはならなかった」とある。

また、巡回時、汽船で同船した者の中に、聖公会の主教ファイソンがいて、
会話を交わした記述があった。
そこには、「主教ファイソンは教会の隣の敷地に家族と共に暮らしている」というものだ。

函館における聖公会の動きは、ウォルター・デニングに始まり、
ジェームズ・ウィリアムズ、ファイソンと続く。
彼らは聖公会とはいえ英国国教会と米国聖公会の違いがあり、
今回、ファイソンは1877年(明治10)に函館伝道を命じられたとする
論文を見る機会を得た。主教となったのは1897年(明治30)で、
北海道地方部の初代主教である。

さて、箱館人さんへの報告を。。。

その後の調べで、教会所有の資料の中に、
郷土史家小沼健太郎氏作成の資料集を見つけました。
その中には明治10年頃の地図(道立文書館所蔵番外地図)の写しがあり、
117号借地は「英国セウイレニヤム」と記されていました。
これによるならば、司祭アナトリーが117号地を返還した後、
英国の関係者が土地を取得したと考えられます。

小沼氏の「明治函館風景」はまだ拝見していませんが、
司祭アナトリーやセルギイ・ストラゴロツキーによる著書には
ロシア病院が再建されることはなかったと記されていますから、
小沼氏による教会の下の建物が明治5年に再建された病院であることと、
三角屋根が司祭館であるという説はまだ確定できません。

司祭アナトリーが開拓使に出した司祭館予定地の請願が受理されたかどうか、
また建設許可の文書もまだ目にしていませんから、
これらが明らかになれば再建説に決着がつくのではないでしょうか。

はこだて外国人居留地研究会のマップ掲載写真が明治9年というのは
やはり信じがたいものが。。。
(小沼氏の資料でも同様の写真があり明治10年8月以降のものとしています。)
いずれにしても、この頃のことは、まだまだ再考の必要があると思います。

長崎におけるロシア病院については私自身がまだ乏しいので、
教会資料にて引き続き調べてみますが、
1866年から1907年の事柄については今回で筆を置くこととします。

また新たな資料などを入手したら、是非、情報交換をしたいと思いますので、
今後もお付き合いの程よろしくお願いいたします〜(^o^)


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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
セルギイ(ストラゴロツキー)総主教の評判が以前日本の一部で悪かった原因の一つは政治的な理由もあります。

ご存知の通り日本正教会はニコライ(小野)主教以降1970年までモスクワ総主教庁と対立する在外シノド後に在北米ロシア府主教区(現アメリカ正教会)に属していました。

彼らの立場からすると総主教代理代理(心得)後に総主教としてモスクワ総主教庁を率いたセルギイ(ストラゴロドツキー)府主教は、『共産主義者と妥協した裏切者』でした。そのことが、人々の悪いセルギイ観の裏にあります。
伊望
2008/08/16 15:48

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