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zoom RSS 「生徒を愛撫薫陶した恩人」 修道司祭ウラジーミル

<<   作成日時 : 2013/01/28 18:04  

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ウラジーミル修道司祭 (1852.12.31〜1931.11.27)の略歴


1852年(嘉永5)
12月31日
コンスタンチノグラド州ポルタヴァのジルコフカ村に生まれる。父親は村の司祭。
俗名 ワシリイ・ソコロフスキイ
(Соколовский-Автономов Василий Григорьевич)

ポルタヴァ神学校を卒業する。
カザン神科大学へ入学する。
在学中、日本で正教伝道に励むニコライに関心を抱く。

1878年(明治11)
大学卒業後は帰郷して村の神学校に舎監として赴任。

10月
アレクサンドル・ネフスキー大修道院において修道司祭に叙聖される。
(Свято-Троицкая Александро-Невская Лавра)

1879年(明治12)
1月14日
府主教イシドルの尽力によって宣教団メンバーに任命される。


3月末
来日

ニコライが開設した「露語学校」(※神学校の前身)の校長兼指導者となり、学校整備に情熱を注ぐ。
当時、授業はロシア語で行われていたが、ウラジーミル修道司祭は英語指導にも力を入れた。画像


※1879年(明治12)7月〜1880年(明治13)11月
この間、ニコライは主教叙聖のため、ロシアへ帰国。



1880年(明治13)??? 
箱根・塔ノ沢に自費を投じて神学校避暑館を建設(将来的に修道院開設を希望)
土地の購入経緯は不明
建設年月日不明  
根拠:小野帰一編『酒井篤礼小伝』



同年、塔ノ沢温泉の元湯:環翠楼には
江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所:天璋院篤姫も登楼している。


HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治来日本古写真メタデータ・データベース」
塔ノ沢温泉(9)

画像

川沿いの温泉宿とは趣が異なる避暑館の屋根が山腹に見える。
※この建築物については横浜国立大学工学部建築学科が
箱根町の依頼を受け、1981年(昭和56)と1982年(昭和57)に調査を行っている。


アトス山よりゲオルギイ修道司祭を呼び寄せる。
ニコライの祝福を受け、塔ノ沢に住み近隣で布教活動を行った。


1882年(明治15)

砂沢丙喜治「五十年前の神学校を懐ふ」〜 『正教時報 第21巻7号』(1932年7月20日発行) 
「余は突然憶出したのは明治十五年の夏、
休暇の際箱根塔の澤に避暑したときのことであった。
…余等の避暑地はウラデミル神父の経営になり塔の峯の麓に
建営されたもので聖堂もあり宿舎もあり又避暑用の水浴槽まで設けられてあった。」

※『正教時報 1402号』(2007年7月20日発行)に掲載されている
『修道司祭ウラヂミル』 の本文中には、避暑館で夏の休暇を過ごす神学校生徒達の写真がある。
当時、神学校の入学資格は高等小学校を卒業した15、16歳の少年少女。
並んで写る顔にまだあどけなさが残っている。

1883年(明治16)
8月14日
聖アントニイ聖堂の成聖式(避暑館敷地内)

『正教新報 第66号』(1883年9月1日発行)
「相州塔の澤には嘗て一聖堂を建立されしが這般は至聖所迄も
全く落成に及びしかば聖アントニイの聖堂と名づけられ去月十四日に
成聖の祈祷を献ぜられたり
当日列位の神品はウラディミル佐藤新妻假野の四司祭なりといふ」


イコノスタスはペトログラード(当時)のノヴォデヴィチ女子修道院院長エウストーリヤの献金によって制作された。
『ニコライの日記(上)』(中村健之介編訳 岩波文庫)にある
1879年(明治12)9月15日(露暦)の日記では、
訪問したノヴォデヴィチ女子修道院での会話について記している。
「…ウラヂミル師が建設を計画している聖堂にかかげるイコンのために、
すでに10枚のカンバスを注文してあると言った。」


1884年(明治17)
典院(イグーメン)に昇叙。

4月(〜8ヶ月)
休暇のためロシアへ帰国。

1885年(明治18)
再来日

7月
公会後、前橋方面を管轄する。

1886年(明治19)
3月
ニコライに病気理由の休職願いを申し出る。

8月
帰国

中村健之介編訳 『ニコライの日記(上)』(岩波文庫) 
1886(明治19)8月11日(23日)の日記より
「きょうヴラヂミル師は横浜へ去った。明日、「モスクワ号」に乗り、ロシアへ帰る。
気が滅入るが、しかし、きっとこれが神の思し召しなのだろう。」

※同じ頃、ゲオルギイ修道司祭も帰国。

自ら請願してワルシャワ教区ホルム市の神学校へ赴任する。

1887年(明治20)
11月
掌院(アルヒマンドリト)に昇叙。

12月
アリューシャンとアラスカの主教に叙聖される。

1888年(明治21)
3月
サンフランシスコに赴任する。

1891年(明治24)
10月
ヴォロネジ教区へ赴任し、福祉活動、聖歌隊、教会学校などの発展に尽くす。
Воронеж, Алексеевский Акатов монастырь.

1895年(明治28)
5月6日
聖ウラジーミル三等勲章を授与される。

1896年(明治29)
12月22日
オレンブルグ・ウラルの主教になる。
画像

参照:HP「オレンブルグ主教教区」 歴代主教

1899年(明治32)
聖アンナ一等勲章を授与される。

1903年(明治36)
11月26日
エカテリンブルグの主教になる。

この頃、ニコライが送った手紙を受け取る。
手紙の内容は小田原ハリストス正教会の修復資金の援助について。

中村健之助監修『宣教師ニコライの全日記』(教文館)
1907年(明治40)2月の日記より
「あなたが伝道ミッションに贈ってくれた塔の沢の土地は
今でも神学生たちの休暇期の宿舎になっています。
〜 教会は古くなったので取り壊しましたが、
その場所により簡素な設計の別の教会が建てられました。
〜 あなたが尽力されたセミナリイ(※神学校)は順調です。
現在六十三名の生徒とロシヤ人が十人います…」

ニコライの手紙を教区報に掲載し、献金を募る。

1910年(明治43)
3月18日
モスクワの聖アンドロニク修道院へ。
※この修道院はロシア革命により1917年(大正6)に閉鎖された。

1921年(大正10)
エカテリノスラブスキの大主教に昇叙。

※関東大震災後、塔ノ沢の避暑館は小田原正教会に一部移築される。

1931年(昭和6)
11月27日  
79歳で永眠。 

12月1日  
総主教代攝セルギイ府主教並びに三名の府主教により埋葬式執行。
ブセフスビャトスク村の諸聖人聖堂の墓地に埋葬。

1932年(昭和7)
10月9日
四谷教会でパニヒダ(※永眠した人を記憶する祈り)が行われる。

『正教新報 第21巻10号』(1932年10月20日発行)
「十月九日四谷教会にて聖体礼儀執行後三井、森田、福井三長司祭によりて
昨年十一月永眠せられしウラヂミル大主教及び〜のパニヒダが行われ…。」


1947年(昭和22)
11月
荒廃した塔ノ沢の土地及び建物は貿易商土井一郎氏に売却。(『建築雑誌』1983.6)

1953年(昭和28)
箱根開発株式会社の所有となる。(『建築雑誌』1983.6) 



この略暦は『正教時報』2007年7月号に掲載されたセラフィム大主教座下著『修道司祭ウラヂミル』 を要約、補足したものです。

文献
・『正教時報』
・小野帰一編『酒井篤礼小伝』
・中村健之介編訳 『ニコライの日記(上)』(岩波文庫)
・中村健之助監修『宣教師ニコライの全日記』(教文館)
・『建築雑誌』1983.6 日本建築学会 vol.98 No.1208 「文献抄録」より

参考:『正教会百科事典』ВЛАДИМИР


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
小田原に来た 避暑館の一部は、まだ私の結婚式から数年は、信徒会館として使用されて居ました。その後は、信者の方が 箱根に建てたいと言う事で持って行かれましたが 本人が永眠してしまって何処かで朽ちて居るかもしれませんね。
mari-na
2013/01/29 20:42
mari-naさん
初めて写真を見たとき、塔ノ沢温泉と避暑館のコントラストに驚きました。“日本文化の中に現れた洋風建築”と捉えるのでしょうが、函館に暮らしている故か、温泉宿のほうにインパクトを受けました。資料が揃ったら避暑館についても記したいなと思っています。
nikoyuri
2013/02/02 00:20

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